清(しん)は、清朝(しんちょう)ともいい、1636年に満州において建国され、1644年から1912年まで中国を支配した最後の統一王朝。首都は盛京(瀋陽)、後に北京。
満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が立てた王朝で、中国語では大清と号した。
歴史 
清の勃興 
17世紀初頭に明の支配下で、満洲に住む女真族の統一を進めたヌルハチ(努爾哈赤、太祖)が、1616年に明から独立して建国した後金国が清の前身である。この後金国の建国と前後して、ヌルハチは満洲文字(無圏点文字)を制定し、八旗制を創始する等、満洲人が発展する為の基礎を築いていた。1619年、ヌルハチがサルフの戦いで明軍を破ると、後金国の勢力圏は遼河の東方全域に及ぶに至った。その子のホンタイジ(皇太極、太宗)は山海関以北の明の領土と内モンゴルを征服し、1636年に女真族、モンゴル人、漢人の代表が瀋陽に集まり大会議を開き、そこで元の末裔であるモンゴルのリンダン・ハーンの遺子から元の玉璽(後に作られた偽物である可能性が高いが)を譲られ、大清皇帝として即位するとともに、女真の民族名を満洲に改めた。尚、この満洲という民族名は文殊菩薩に由来していると言われており、後金国の段階から満洲王朝はラマ教を保護していた。
清の中国支配 
順治帝のとき、李自成の乱によって北京が攻略されて明が滅んだ。清は明の遺臣で山海関の守将であった呉三桂の要請に応じ、万里の長城を越えて李自成を破った。こうして1644年に清は首都を北京に遷し、中国支配を開始した(「清の入関」)。しかし、中国南部には明の残党勢力(南明)が興り、とくに鄭成功は台湾に拠って頑強な抵抗を繰り広げた。清は、はじめ摂政王ドルゴン(ヌルハチの子)によって、のち成長した順治帝の親政によって、中国南部を平定し明の制度を取り入れて国制を整備した。
異民族である満州族の支配を漢民族が比較的容易に受け入れた背景には、明の王室を武力によって取って替わったのではなく、明を滅ぼした李自成を逆賊として討伐し、自殺に追いやられた崇禎帝の陵墓を整備するなど、あくまで明の後を継いだことを前面に出していた事が考えられる。
清の最盛期 
順治帝に続く、康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三代に清は最盛期を迎えた。
康熙帝は、即位後に起こった三藩の乱を鎮圧し、鄭氏の降伏を受け入れて台湾を併合して、清の中国支配を最終的に確立させた。対外的にはロシアとネルチンスク条約を結んで東北地方の国境を確定させ、外モンゴルとチベットを服属させた。
また、このころ東トルキスタンを根拠地としてオイラト系モンゴルのジュンガル部が勃興していたが、康熙帝は外モンゴルに侵入したジュンガル部のガルダンを破った。のち乾隆帝はジュンガル部を滅ぼして東トルキスタンを支配下においた。これによって黒竜江(アムール川)から東トルキスタン(新疆)、チベットに及ぶ現代の中国の領土がほぼ確定した。
こうして少数の満洲族が圧倒的に多い漢族をはじめとする多民族と広大な領土を支配することとなった清は、中国王朝の中でも特有の制度を築いた。藩部と呼ばれた内外モンゴル・東トルキスタン・チベットでは土着の支配者が取り立てられて間接統治がひかれ、理藩院に管轄された。満洲族は八旗に編成され、軍事力を担った。また、皇帝が行幸で直轄する地域を訪れる際には漢民族の支配者として、藩部の支配地域に行く際にはゲルに寝泊りをしモンゴル服を着用するなど、ハーンとして振舞うことで関係を維持した。重要な官職には漢族と同数の満洲族が採用されてバランスを取った。雍正帝の時代には皇帝直属の最高諮問機関軍機処が置かれ、皇帝独裁の完成をみた。
清が繁栄を極めたこの時代には文化事業も盛んで、特に康熙帝の康熙字典、雍正帝の古今図書集成、乾隆帝の四庫全書の編纂は名高い。一方で満洲族の髪型である辮髪を漢族にも強制し、文字の獄や禁書の制定を繰り返して異民族支配に反抗する人々を徹底的に弾圧した。
しかし、乾隆帝の60年に及ぶ治世が終わりに近づくと、乾隆帝の奢侈と十度に及ぶ大遠征の結果残された財政赤字が拡大し、官僚の腐敗も進んで清の繁栄にも陰りが見えはじめた。乾隆帝、嘉慶帝の二帝に仕えた軍機大臣の和珅は、清朝で最も堕落した官僚の一人であり、乾隆帝の崩御後、親政を行おうとする嘉慶帝により自殺に追い込まれた。
ヨーロッパ列強の進出と内乱 
19世紀の中国は、清の支配が衰え、繁栄が翳った時代である。清朝は、大規模な社会動乱、経済停滞、食糧の供給を逼迫させる人口の爆発的増加などに苦しんでいた。これらの理由に関しては様々な説明がなされるが、基本的な見解は、清は、この世紀の間ずっと、従来の官僚組織、経済システムでは対処しきれない人口問題と自然災害に直面したということである。
19世紀の中国にとっての主要な問題の一つはどのようにして外国と付き合うかということであった。伝統的に、中国は東アジアにおいて覇権を握っており、中華思想に基づいて、歴代王朝の皇帝が『天下』を支配し、冊封体制の下で東アジアの国際秩序を維持するものと考えていた。しかし、18世紀後半になると、ヨーロッパ諸国が産業革命と海運業によりアジアに進出していった。イギリス商人は18世紀末にヨーロッパの対中国貿易競争に勝ち残って、中国の開港地広州で茶貿易を推進した。
1793年、イギリスは、広州一港に限られていた貿易の拡大を交渉するため、ジョージ3世が乾隆帝80歳を祝う使節団としてジョージ・マカートニーを派遣した。使節団は最新の工業製品や芸術品を皇帝に献上したが、清はヨーロッパの製品は必要とせず、ジョージ3世は自由に皇帝に敬意を表してよいという返答を得たのみであった。こうして対中輸出拡大を望むイギリスの試みは失敗に終わった。
この清の対応の結果、イギリスと清の貿易では、清の商人は銀での支払いのみを認めることとなった。当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を清から大量に輸入していたが、中国に輸出する商品を欠いており、毎年大幅な貿易赤字となっていた。これに対し、イギリスはアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命の資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する必要があり、インドの植民地で栽培した麻薬アヘンを中国に輸出することで三角貿易を成立させた。清は1796年にアヘンの輸入を禁止したが、アヘン密貿易は年々拡大し、中国社会でのアヘンの蔓延は清朝政府にとって無視できないほどになった。このため、1839年林則徐を欽差大臣に任命してアヘン密貿易の取り締まりを強化した。
林則徐は広州でイギリス商人からアヘンを没収して処分する強行策を取ったが、アヘン密輸によって莫大な利益を得ていたイギリスはこの機会に武力でアヘン密貿易の維持と開国させる決意を固めて、翌1840年清国沿岸に侵入しアヘン戦争を起こした。強力な近代兵器をもつイギリス軍に対しアヘンで堕落した清軍により敗北した清は、1842年イギリスと不平等な南京条約(およびそれに付随する虎門寨追加条約、五口通商章程)を締結した。主な内容は、香港島の割譲や上海ら五港の開港、領事裁判権の承認、関税自主権の喪失、清がイギリス以外の国と締結した条約の内容がイギリスに結んだ条約の内容よりも有利ならば、イギリスに対してもその内容を与えることとする片務的最恵国待遇の承認であった(その後、1844年にフランスと黄埔条約を、アメリカと望厦条約を締結した)。
アヘンの密輸を含む対中国貿易はこの後も伸び悩んだので、イギリスは1856年清の官憲がイギリス船アロー号の水夫を逮捕したのを口実に、1857年、第二次アヘン戦争(アロー戦争)を起こした。イギリスは、宣教師が逮捕にあった事を口実として出兵したフランスと共に広州・天津を制圧し、1858年にアヘンの輸入公認・公使の北京駐在・キリスト教布教の承認・内地河川の航行の承認・英仏に対する賠償金などを認めさせる天津条約を締結した。その後さらに北京を制圧し、天津ら十一港の開港・イギリスに対し九竜半島の割譲を清に認めさせる北京条約を結んだ(1860年)。これにより外国商品の中国市場流入が進んだ。また、このときロシアに沿海州などの外満州を割譲させられた。
この戦争と同時期には、国内でもキリスト教の信仰を紐帯とした組織・太平天国による太平天国の乱(1851年 - 1864年)、捻軍の反乱(1853年 - 1868年)、ムスリム(回族)によるパンゼーの乱(1856年 - 1873年)や 回民蜂起(1862年 - 1877年)などが起こり、清朝の支配は危機に瀕した。太平天国の乱の末、即位した同治帝の母西太后が政権を握ると、曾国藩・李鴻章ら太平天国の鎮圧に活躍した漢人官僚が力を得て、清朝の根幹の制度を維持したまま西洋の技術を導入する洋務運動を開始するに至った。
ウイグルでは、ヤクブ・ベクが清朝に反旗を翻した(ヤクブ・ベクの乱)。その中で、ロシアが1871年中央アジアからウイグルに派兵しイリ地方を占領した。漢人官僚の左宗棠の努力により、ヤクブ・ベクの乱は鎮圧され、最終的には、曾国藩の息子である曾紀沢の手によって1881年にはロシアとの間で不平等なイリ条約を締結し、イリ地方をロシアに割譲することになった。
半植民地化・滅亡 
まず1872年、日本の琉球併合により冊封国琉球を事実上失った。1884年、インドシナ半島の植民地化を進めるフランスに対しベトナム宗主権を維持しようと清仏戦争(- 1885年)が起きたが、これによって冊封国ベトナムを失い、アジアの盟主の地位が激しく揺らいだ。続く1894年、朝鮮で東学党の乱(甲午農民戦争)が起こり清が宗主国として介入すると、朝鮮支配を狙う日本も対抗して出兵して日清戦争(- 1895年)に発展したが、清の敗北に終わり、下関条約によって台湾割譲と朝鮮が自主国であることを承認させられ、冊封国朝鮮に対する影響力も失った。
「眠れる獅子」と畏れられた清が、新興国日本に敗北する様子を見た欧州列強は、1896年から1898年にかけて勢力分割を行い、満洲からモンゴル・トルキスタンをロシア、長江流域をイギリス、山東省をドイツ、広東省・広西省をフランスが勢力圏とした。同じく、イギリスは香港の九龍半島と威海衛、フランスが広州湾、ドイツが青島(膠州湾租借地)、ロシアが旅順と大連を租借地として、それぞれ要塞を築いて東アジアの拠点とした。アメリカは南北戦争による国内の混乱から出遅れたため、中国市場は全ての国に平等に開かれるべきだとして、門戸開放宣言を発した。
これに対し康有為・梁啓超ら若い知識人が日本の明治維新にならって清も立憲君主制を取り国政の本格的な近代化を目指す変法自強運動を唱えはじめた。彼ら変法派は光緒帝と結んで1898年一時的に政権を奪取することに成功する(戊戌の変法)が、西太后率いる保守派の反撃にあって打倒された(戊戌の政変)。その後、西太后は愛新覚羅載儁(保慶帝)を皇帝として擁立するも、保慶帝の父が義和団の指導者であるため強い反発をうけ、3日で廃された。
1899年、反西洋・反キリスト教を掲げる義和団が蜂起し、「扶清滅洋」をスローガンにかかげて外国人を攻撃しつつ北京に進出した。翌1900年西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、八カ国連合軍に北京を占領され、外国軍隊の北京進駐を認める北京議定書を結ばされた。こうして清の半植民地化はますます進んだ。
その後、義和団の乱の影響もあって清朝政府はついに近代化改革に踏み切り、科挙を廃止し、六部を解体再編し、憲法発布・国会開設を約束し、軍機処を廃止して内閣を置いた。しかし、清朝は求心力を失いつつあり、孫文らの革命勢力が次第に清朝打倒運動を広げていた。1911年、武昌での武力蜂起をきっかけに辛亥革命が起こり、清は完全な内部崩壊を迎えた。
翌1912年1月1日、南京に中華民国が樹立した。清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)は2月12日、正式に退位し、ここに清は完全に滅亡した。
