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独立



独立(どく・りゅう、1596年~1672年12月24日)は、中国明末に生まれ、清初に日本に渡来した臨済宗黄檗派の禅僧である。日本に書法や水墨画、篆刻を伝えた。日本篆刻の祖として知られる。また禅僧でありながら文人気質に富み、日本文人画の先駆けとなる水墨画を残している。同じく帰化僧の化林性偀とともに長崎桑門の巨璧と称賛される。

俗姓を戴、諱をはじめ観胤、ついで観辰のちに笠とした。字を子辰のちに曼公。日本で得度した後は独立性易(どくりゅうしょうえき)と僧名を名乗った。荷鉏人、天外一閒人(てんがいいっかんじん)、天間老人、就庵などを号とした。文人・書家などからは戴曼公と称されることも多い。 浙江省杭州仁和県の人。

儒学と医術を学び明朝に仕官した。すでに中国では詩や書で名が聞こえていた。宦官の魏忠賢による政治の乱れを嫌い、長水(河南省廬氏県か?)語渓に隠れ医術を業とした。

明朝滅亡後、清朝の圧政を逃れて承応2年(1653年)58歳のとき、商船に乗って長崎に渡来。そのまま亡命する。

しばらく帰化人の医師頴川入徳の許に寓居していたが、ここでは朱舜水と同居となっている。翌年12月、隠元の招きによって興福寺にて得度し、儒者であったが仏門に帰依し道号を独立、法諱を性易と名乗った。

同年、隠元の普門寺行きに記室として随行。これに引き続いて江戸に入ると、漢詩や書、篆刻、水墨画などの技芸が高く賞賛された。噂を聞いた老中松平信綱より平林寺に招かれる栄誉にも浴した。

しかし、病を得て万治2年(1659年)には長崎に戻る。興福寺にて養生をしながら、自著『斯文大本』を元に『書論』を著し正しい書法の啓蒙に努めた。明代の新しい篆刻を伝え日本の篆法を一新した。また初めて石印材に刻する印法を伝えた。

寛文2年(1662年)、67歳からは各地を行脚しながら医業に専念。貧富にかかわらず民に薬を施し病を癒したという。とりわけ疱瘡の治療で知られた。岩国吉川家や長州毛利家、小倉小笠原家などからも招かれている。岩国では錦帯橋の架設に重要な示唆を与えている。

寛文5年(1665年)、即非如一の広寿山福聚寺の書記となり白雲室を与えられている。

寛文12年11月(1672年)、崇福寺広善庵で示寂する。享年78。宇治黄檗山萬松岡(ばんしょうこう)に葬られる。

明治23年(1890年)、中井敬所によって『独立禅師印譜』が編集され、現在東京国立博物館に所蔵されている。この印譜に鈐された印は独立が中国から持ち込んだ印で、弟子の高元岱に授けられたものが代々の門弟を通じて敬所に届いたものである。

他に書家の北島雪山も弟子となっている。




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