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上海列車事故



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上海列車事故は、1988年(昭和63年)3月24日に中国上海郊外で発生した急行列車同士による列車衝突脱線転覆事故である。修学旅行のため乗車していた日本の高校生が事故に巻き込まれ、多数の死亡者を出した。

事故の背景 anchor.png

高知学芸高等学校1年生179名および引率の教師と同行する医師、そして大手旅行会社の添乗員ら14名の193名が、高知港を夜行フェリーで出発したのは、1988年3月21日夜の事であった。一行は、翌朝大阪南港に到着後、空路大阪国際空港から上海虹橋国際空港に向かい中国に入国した。なお、同校の1年生全員が中国へ行った訳でなく、同校では同じ日時に中国班と東北班に分かれて修学旅行を実施していた。事故に巻き込まれた生徒の中には、当時の中国の治安状況などを考慮して東北地方を希望していたものの親権者の指示により中国に行かざるをえなかった者もあり、負傷者が親権者の責任を追及している例もある。また教師の川添哲夫も修学旅行に向かう2年生の担任ではなかったが、2年のある組のクラス担任が東北班に同行することになったため、代理担任として同行することになった。

一行は、当日中に上海駅から京滬線の急行で蘇州に向かい、翌日は同地を観光した。24日の午後1時20分(以下現地時間、日本時間は1時間遅い)に蘇州駅を出発し杭州駅に向かう南京駅始発の311急行旅客列車に乗車した。予定では午後6時52分に到着する筈であった。

しかし、この時期の中国の鉄道は急増する需要にインフラの整備が追いつかず事故が多発しており、同年1月には、大鉄道事故が3件連続して発生し、140名が犠牲になっていた。そのため、3月6日には中国鉄道省大臣が更迭されていた。また上海と蘇州の間の鉄道は中国有数の過密ダイヤで運行されていたにも関わらず、ATSが全く整備されていないなど安全性に問題があった。

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事故の概要 anchor.png

一行が乗車した311列車であるが、蘇州から杭州に向かうには運行上の都合から一旦上海で方向転換する必要があった。311列車は上海西郊の真如駅(現在上海西駅)で停車し、そこで機関車を切り離し再び後部に連結し直し進行方向を変えた。そこから南翔駅まで逆行し、そこで待避線で対向列車をやり過ごしたあと、上海郊外を迂回するバイパス線「南新線」に乗り入れて、さらに京杭線に乗り入れ杭州に向かう複雑な列車運行を行うはずであった。待避線は上海駅から15km離れた封浜(現在の上海市嘉定区南翔鎮付近)にあったが、311列車は急制動をかけて停車寸前に再び動き始めた。だが、これは決められた停止位置をオーバーランしており、単線区間の本線に入り込んでしまっていた。そのため午後3時20分ごろに北上してきた長沙発上海行きの第208急行列車と本来の停止位置よりも160m動いた地点で正面衝突した。衝突の衝撃で208列車の郵便貨車が脱線転覆したが、311列車の2両目に3両目が食い込んでしまう最悪の事態が生じていた。

この事故では29名が死亡し99名が負傷したが、大破した2両目には高知学芸高校の修学旅行生一行が乗車しており、生徒27名と引率教諭1名が犠牲となり36名が負傷した。特に列車が食い込んだ為に破損がひどく閉じ込められた乗客の救助は翌日まで掛かった。一行の大部分は3月26日に上海から高知空港に向かうチャーター機で帰国し、翌日、犠牲者27名の遺体は遺族とともにチャーター機で高知に帰った。後に重体の1名が死亡している。

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事故原因 anchor.png

中国当局の調べでは、原因は修学旅行生を乗せた列車の機関士2名による信号の見落としとされている。そのため公式には鉄道信号無視による列車驀進による事故とされている。ただし事故直後には機関士がブレーキが利かなかったと証言している事や、真如駅で列車の方向転換のために機関車を付け替えた際にブレーキホースをきちんと接続していなかったうえに、ブレーキテストをしていなかったとの指摘を上海鉄路局の幹部が話している。この話が真実であれば事故原因は駅構内の作業員の人為的ミスの割合が高くなる。しかしながら、詳細な事故調査報告が中国当局からなされていない為、不明である。

いずれにしても、当時の中国鉄道は日常的なダイヤ遅れや、列車区ごとの縄張り争いや、鉄道労働者のモラルの低下、鉄道設備の立ち遅れなど様々な支障が生じており、安全性を省みない人為的なミスが事故に繋がった可能性があるといえる。

なお、事故車両の機関士であるが、1988年9月22日に上海鉄道運輸中級裁判所で初公判から判決までを一日で行う集中裁判が行われた。被告人側弁護人はブレーキ故障説を主張したが、裁判の結果機関士の過失によって発生したとして日本の業務上過失致死傷罪に相当する「交通重罪」で有罪となり、機関士(当時45歳)に懲役6年半、機関助手(当時33歳)に懲役3年を言い渡されている。

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補償問題 anchor.png

中国側との事故に対する補償交渉は翌年1989年3月に妥結した。しかし、中国側との補償交渉は日本国の外務省が『基本的には中国と遺族との間の問題」として直接サポートしなかったことや当時の政治的問題や経済格差等のため難航を極めた。また旅行会社との補償問題も、同校の修学旅行はいわゆるツアーといった企画旅行ではなく学校側の提案による手配旅行であり、法律上の補償義務はないとして別途かけていた海外旅行保険の給付しか行わなかった。また学校側と遺族との軋轢も後々まで残る事になった。

また当時の日中友好ムードが障壁になったとの指摘もある。当初から物価水準が著しく異なる為に賠償金が低いことが指摘されていたが、中国人遺族の賠償金の桁違いの差が中国政府の批判へと発展する事を懸念した中国側は日本側との補償交渉の席で日中友好と云う言葉を何度もしきりに使いながら中国側は精一杯の努力をしたとして決着に持ち込んだという。

実際に1988年8月に訪中した日本の竹下登首相に対し中国の李鵬首相が「国情の違いを理解してほしい」と、日本並みの補償はできないとする基本的立場を伝えた。日本側が民事問題としている補償問題に対して、中国政府は介入する態度を示していた。このような対応に対し石原慎太郎運輸大臣は「被災者側弁護士によると中国は中国の示した条件で打ち切るといっているらしい」と発言し、このようなことでは日本における中国の印象も悪くなると指摘し、東京にあった旧満州国の不動産売却によって中国政府が売却益を上げていることを引き合いに出し、そこから補償金にまわすべきだと述べた。

このような事情であるため、補償額の日中間の開きは大きく、第一回に東京で行われた交渉では、日本側は5000万円前後を示したが、中国側は一律31,500人民元(当時のレートで約110万円)であったという。第二回に上海で行われた交渉では、日本側も2100万円に引き下げたが、それに対する回答は220万円であったが、この金額は1988年1月に重慶郊外で墜落した中国西南航空機事故で犠牲になった日本人技術者3人に対して提示された金額と一緒であった。そのため中国側は、双方の事故補償とも同じ事故水準で解決しようとしていた。結局、中国側とは1989年2月26日に補償条件を受諾したが、その金額は未公表であるが、400~550万円の間、おそらくその中間であった。この最大値550万円は前述の重慶の事故の犠牲者の補償額である。海外で発生した事故で犠牲になった日本人に対する補償金としては一切なしという事例もあるため、極端に低いものではないが、決して充分な補償ではなかったといえる。

一方、学校側は1988年12月27日に「事故の法律的責任はない」とする”最後通牒”を遺族に送付し、学校が支払うのは見舞金200万円を含め800万円とし、別途に学校に全国から寄せられた義捐金約2億7000万円を分配し一人当たり800万円を支払うとした。また日本体育・学校健康センター基金から災害共済給付金として一律1400万円が支給された。そのため学校側は3000万円弱しか支払わなかった。

以上のことから、旅行保険も含め、犠牲になった生徒の遺族に支給された金銭補償は4000万円前後であるが、同時期に高校で発生した事件や事故の補償と比較しても低いといわざるを得ない水準であった。

前述のように学校側の不誠実な対応に不信感を積もらせた遺族のうち、4遺族が不可解な旅行目的や無理な日程、事故後の対応など、学校側に法的責任があったとして、旅行会社まかせで旅行行程の下見をしていなかった事や遺族に対する誠意の欠如などを理由に高知地裁に民事訴訟を提起した。この訴訟であるが1994年に旅行の下見が校長夫妻がパック旅行でしただけという杜撰な面があったと指摘しつつも「事故の予見可能性はなかった」として原告敗訴の判決が言い渡され、控訴を断念したため確定した。

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事故のその後 anchor.png

学校側による事故報告書は、長年にわたり未完成であったが、事故から21年目の2009年3月になってようやく完成した事故報告書を遺族を訪ねて直接手渡すことになった。この報告者は修学旅行の計画や事故後の対応などを盛り込んだ160ページにわたり記述されている。3月15日には遺族に対する説明会を開催された。

ただし、事故報告書の完成まで年数が掛かり過ぎている(学校側は人事異動を理由としていた)ことや、作成に当たり遺族らの聞き取りは行われていないなどの不誠実であると批判をうけている。また1990年に完成した同高敷地内にある慰霊碑への氏名の記入や慰霊祭への参列を、学校側の対応には納得できないとして拒否し断り続けている遺族もいる。

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備考 anchor.png

  • 尾形大作のヒット曲「無錫旅情」はこの事故の後、長らく放送自粛を余儀なくされた。(歌詞の部分にこの311列車が走っているコースがあるため。なお、2008年10月14日の『NHK歌謡コンサート』で別の歌手の歌唱で放送されている)
  • 事故現場となった上海郊外にも同校の慰霊碑 が建立されている。
  • 雑誌「鉄道ジャーナル」では、他のマスコミに左右されない独自の見解が示された。(編集長である竹島紀元が、中国の鉄道事情に詳しかったため。また竹島は事故直後、コメンテーターとして多くのテレビ番組に出演している)
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関連人物 anchor.png

  • 川添哲夫(死亡した教諭。全日本剣道選手権優勝2回を誇る剣士だった)
  • 岡村勲(弁護士。補償交渉で日本側弁護団長を務めた)
  • 西村眞悟(弁護士、のち衆議院議員。弁護団の一員)
  • 村下孝蔵(「恋文」という曲はこの事故で犠牲になった生徒へのメッセージソングといわれている)
  • 丁関根 (事故当時鉄道部長(運輸大臣)。事故後降格される)

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