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中華料理の歴史



料理はまず火を使うことから始まりますが、まだ本当の意味での料理とはいえず、ただ生ものを焼いただけにすぎません。それでも料理の発展史の中では大変重要な第一歩であったといえましょう。

石器, 0426shiqi.jpg

更に海辺に住む人類が、海の水を煮て塩をつくるようになり、味つけが生まれます。それでも調理技術とはいえません。調理するには、道具がひつようです。今から、6000年ほど前の新石器時代に入りますと、石の包丁が誕生し、調理に必要なうつわ、土器や陶器の発明によって、煮ること炊くことをおぼえ、蒸す方法も生まれ、こうして、はじめて、料理らしきものが誕生します。人類の定住生活と、家禽家畜の飼育の普及、農地開墾が進むにつれ、料理に必要な材料の多様化と道具の完備化が実現する中で、調理技術は大きな足どりで前進しました。

料理の発展を促した最大の原因は、都市の誕生にあります。杜氏の人口が増えるにつれ、生活の必要から、料理屋、居酒屋、茶楼などが町並みに現れ、都市人口がふくれると同時に、都市もますます繁栄し、それにともなって、中国の料理も発展の一途をたどって行きます。

ところで、北京の周口店で発掘された北京猿人は、火を使っていたことが、その遺跡から実証されていますから、北京猿人が肉を焼いて食べていたことは疑いの余地はありません。

今から一万8000年ほど前の古代人類、山頂洞人はその後期、すでに新石器時代に入っており、石の包丁を使い、肉を細かく切り、土器もつくれるようになり、ただ火であぶるだけでなく、煮て食べるようになり、それまでは、食用できなかったスッポンも、その頃から料理されるようになります。スッポンを焼いて食べるのは一寸無理でしょうが、石の包丁でさばいて、土器を使ってとろ火でゆっくり煮れば、美味しい料理ができます。それを一万年程前の人がしっていたのです。

これより更にあとになりますが、それでも今から6000年ほど前の原始社会の遺跡、西安の東郊外で発掘された半坡村遺跡から色々な形の陶器が出土していますが、その中に、底にたくさん穴のあいているかめがありますが、これは現在のせいろに当たるもので、6000年前の原始社会に生活していた人々が、物を蒸して食べ、この頃にはむすという調理法が相当普及していたことを物語るものといえましょう。

中国人の祖先は、火を使うことを知ってから、数千年、生物を焼いて食べていましたが、新石器時代に入って、土器、更には、陶器をつくり、調理法から、更に煮る、蒸すことを覚え、更に進めば、油を使って炒めたり、揚げたりする調理技術に達するわけですが、これは更に、後のことになります。

2000年以上も昔、秦の始皇帝がまだ中国を統一していなかった頃、数多くの王国の中で勢力の最も大きな国が周の国でした。その頃には、周の国には、宴会に出される会席料理があり、これを周の八珍といい、料理八品を備えた会席料理のことです。その調理法として、焼く、煮る、酒漬け生物、野菜の塩漬けなどがあり、焼く、それもてり焼きが、当時は大変好まれていたようです。

『呉越春秋』と『土風記』に「魚のてり焼きと公子光、国を得て娘を失う」というエピソードがのっています。

春秋末期のこと、呉王僚は、魚のてり焼きに特殊な興味を持っていた。公子光は呉王僚を殺して政権を奪おうとたくらみ、専諸という男を味方にする。この専諸も公子光と一緒に呉王僚の暗殺に手を貸すことを約束する。当時、大湖のほとりに、太和公という有名な調理師がいた。特に魚のてり焼きでは、右に出るものはいないというほど。専諸は公子光の命をうけ、太和公に弟子入りして、てり焼きの技巧を学ぶ。専諸は三ヵ月で、魚のてり焼きの要領を学び、戻ってくる。

呉王, 0510wuwang.jpg

そうしたある日、公子光は、宴を設けて、呉王僚をもてなした。その席に、専諸が「魚のてり焼き」を呉王僚の前に置く。呉王僚は、これをみると、そわそわして、ゴクンとつばを飲み込むと、箸を手にして、魚に手をつけた。その一瞬である専諸はてり焼き魚の腹にかくしてあった。あいくちを取り出すと呉王僚の胸元を刺した。普段は用心深い呉王僚も、魚のてり焼きについ心を奪われ、突然の襲撃に、ハッと思った時にはもうおそかった。こうして政権は公子光の手に入り、公子光は念願の国王の座につき、呉王闔閭を名乗る。

ひにくなことに、魚のてり焼きで、王座についた呉王闔閭は、この魚のてり焼きで、自分のかわいい娘を失うはめにおちいったのである。

呉王闔閭には美貌の娘が一人いた。この娘も、魚のてり焼きが大の好物である。ある日、父の闔閭と、てり焼き魚をめぐって口論となり、その憤りをおさえられず、娘は自刎してしまう。というのである。これは、史書にあることで、間違いはないようです。

歴史に留めるほど大きな事件を引き起こした料理、魚のてり焼き、専諸が魚のてり焼き料理を学ぶため、調理師の太和公の下で、三ヶ月見習工を勤めたというところから見て、それほど簡単な料理ではなく、つくり方も大変凝っていたに違いありません。

残念なことに、史書には、どんな魚を使い、調味料にはどういうものが入っていて、その調理がどうであったか、何も書いてありません。

漢代と言えば、仏教がインドから伝わったのもこの頃で、東西文化の交流を促したシルクロードが切り開かれたのも、漢代です。シルクロードによって、西から、キューリ、胡麻、クルミ、玉ねぎ、コショー、人参、トマト、ほうれん草といった野菜や調味料、食用油が伝来し、同時に、ブドー、ザクロ、スイカなどの果物も伝来し、人々の食生活はますます豊富になって行きます。こうした中で、料理もこれまで以上に増え、品質も大きく向上しました。

更に西晋、南北朝時代から、隋や唐の時代にかけて、調理技術は、たんなる技術から、学問化へと大きな飛躍をとげます。

西晋の何曾若は『安平公食学』という著書を出版し、南北朝時代には、虞棕の『食珍録』、謝諷の『食経』といった、世界でももっとも最初の料理についての著書が現れています。

食譜, 0524shijing.gif

唐代にかかれた『食譜』という料理の本には、141種類の料理名とそのつくり方が記されています。

中でも、陶磁製造業の発展によって、中国料理の品質、色彩、味、形、器という現代の中国料理に要求される五つの要素が、今から一千年ほど前の唐の時代に、すでに整い、中国の調理技術はこれまでに見ない大きな発展をとげます。

唐代の洛陽には三つの大きな市場があり、東の市を豊都といい、南の市を大同と呼び、北の市を通遠といって、いずれも相当の規模をもつ市でした。『大業雑記』という杜宝が書いた本には、豊都の市、周囲八里、12の門あり、中には120種類余りの業種あつまり、三千以上の店が軒を並べる。市の周囲に四百軒の楼閣をなす豪華な商店があり、商人旅人ここに集まり、珍しきも商品山と積まれると書いています。三千余りの店も、飲食店の数がもっとも多く、その繁栄ぶりが想像できましょう。

特に、唐の元宗、天宝年間、756年に河西回廊が再び開道してからは、中国と外国の学者や、僧侶、商人が三三五五群れをなし、市の料理屋で、酒盛りを上げ、歓談する情景はめずらしいことではありません。

当時すでに、外国人商人が出入りする高級レストランまでがたくさんできていたということです。

この頃はまた、中国と外国の調理技術の交流がもっとも盛んであった頃でもあります。

唐代の初期、文成姫が、チベットの王、ソンシェン・カンポに嫁ぎますが『隋唐五代史綱』によれば、「世にある種々の職人、装飾や調理、農耕や織物」などがチベットに伝わったといわれます。

唐の玄宗以降、都の長安を中心に東はいまの洛陽、西はいまの宝鶏、南は今の荊州や襄陽、北は太原までほとんどの地方に旅館や料理店ができ、美味しい料理を以て、商人や旅人の必要に答えたということです。

古都長安は前後十の王朝がここに都を置き、唐代には、長安城も周囲70里、人口100万という相当な規模の都市となり、それにともなく、旅館、料理屋、居酒屋、茶楼が軒を並べ、飲食の品種も百数十種類にものぼっています。その中には、西域の人が聞く飲食店、今でいうバーもあり、勿論そこに現れるホステスも、西域の娘でした。李白も「少年行」で、次のように描いています。

西安の若者、金市の東の盛り場を

銀の鞍の白馬に乗り、春風の中を度る

落花、踏み尽くして何処にか遊ぶ

笑っている 西域の女のいる酒楼に。

貴族や金持ちの若旦那が、西域の女性がいる酒楼に遊び、歓楽に更っていたのです。

ここで出される酒も西域の酒、酒のさかなの料理も、西域の料理でした。

こうした中で、東西の異なる風格をもった料理が融合して、後の中国の料理の新しい領域を広げることになるわけです。

隋代の江都の人があみだした料理で、隋の煬帝が特にお気に入りの『鏤金竜鳳ガニ』がまず上げられましょう。

隋の煬帝といえばぜいたくを極めた皇帝で、江都、長江の江に都とかく江都にみゆきした時に、地元の役人に、美味しいだけでなく、見た目も美しい料理を出せといいつけ、その時に出されたのが、この料理でした。実は種をあかしてしまえばありふれた料理だったのです。それは、カニの酒漬けで、ただカニの甲に金で竜と鳳凰をあしらったものです。そのつくりが、芸術作品のようであったのが煬帝の心を引いたにちがいありません。

いま一つは、「渾羊歿忽」と一寸変わった名前の料理で、羊の丸焼きかと思いましたら、羊を食べるのではなく、羊をかまの替えりにし、羊の腹の中に納めた鵝鳥やニワトリの若どりを食べるのです。若どりをつぶし、内臓などをきれいに取って、その中に味つけしたもち米をつめこみ、それを更に、内臓をとってきれいに調理した羊の腹に収め、ぬいあわせ、火であぶり、食べる時に羊の腹から、若どりを取り出して、それだけを食べるという、とてもぜいたくな料理です。

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張廉明という人が書いた「羊の会席料理」という文章を読んでいましたら、元の時代にもこの『渾羊歿忽』という料理があったといいます。渾羊というのが羊丸ごと歿忽は一種の宴席のこと、つまり羊だけをつかった会席料理のことをここでは「渾羊歿忽」といっていたのです。最初のかんも、まんざら的を得たものでないわけでもなさそうです。でもそれも、隋や唐のものが受けつがれ、羊の腹の中に納めた若どりだけでなく、羊も食べるようになり、それを更に発展させて羊の会席料理となったのでしょう。

現在の名料理にランクされる「三組ダック」という料理がありますが、これは、隋唐の時代の食べ方が変化してできたものでしょう。

さて、唐王朝の崩壊とともに、世は五代十国の乱れた局面を迎え、北宋の太祖、趙匡胤がこれを統一して宋王朝を築きます。宋王朝は都を開封に置き数十年続きますが、この間、開封は東京の名で呼ばれ、人口も百万をこえる、当時としてスーパー都市として生まれかわり、調理技術も歴代の優れたものを受け継ぎ発展させ、ここに大きな発展を見せます。

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『東京夢華録』には、「四海の珍味を集め、市場に帰する。世界中の異なる味を寄り集め、調理場これに精通す」とあります。このような市場には、名の売れている料亭だけでも72軒もあり、出される料理も一千品をこえるといわれ、また、これらの料亭には北方料理の専門店もあれば、南方料理を専門とする料亭もあります。

宮城の東華門外の飲食街には、魚、エビ、スッポン、カニから、羊、豚、兔などの肉類が、すべて揃い、店という店は「夜が明けると開き、五更すぎて閉じる」といいますから、ほぼ24時間営業というわけです。それも「風雪寒暑を問わず、昼夜をわかたずその賑わい非凡なり」ということです。

北宋宮廷画家、張択端の著名な絵画、『清明上河図』にも、当時の都、東京の繁栄ぶりが描かれています。

その中で料亭、居酒屋、茶店、飲食の露店などが画面の大部分を占め、画面にはまた、「正店」という看板をかかげた三階建ての料亭があるかと思えば、日よけのテントを張った露店の飲食店もあり、露店のテーブルを囲み生る人、料亭に出入りする人などが、ひときわ目につきます。

ここからも、当時の都、東京、中でも繁華街で、料理店がすでに重要な地位を占めていることが伺い知れます。

1127年、都を南の臨安に移し、更に130年もつづきますが、歴史では、これを南宋と呼び、藷笳タを都にした時代を北宋と呼んでいます。南宋の都臨安は現在の観光地の杭州です。

この時代の調理技術の特徴といえば、料理のメニューが揃っていること、注文すれば、どんな料理でも食べる。そのほか前菜も、糟漬ガニ、エビの揚げものなどと豊富で、一寸一杯という人のための酒のさかなや豊富に用意されていること、また今一つは北方の料理が南に移動したこと、これは中国史上でも、飲食の習慣、風俗、調理技術の南北間の最大の交流であったといえましょう。また、南方の飲食習慣が大きく変わったのもこの頃です。

呉自牧という人が書いた『夢梁録』、巻十六「面食店」で:「東京においては南食店では、江南の人たちのために、四川の料理や南の人は北の食事になれないからだ。都を南方に移してから二百年は、水土にも慣れ、飲食も混同して、南北の区別もなくなった」と述べています。臨安、今の杭州の飲食業の繁栄は、北宋の東京、今の開封での延長でもあり、その発展です。

宋代は唐代と同様、文字が長足の進歩を遂げた年代でもあります。唐詩の中で重要な地位を占めています。

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宋代の詩人といえば、悲哀を乗りこえた楽天的、理知的な詩境により、宗詩の風格を確立した詩人、蘇軾こと蘇東坡の名が浮かび上がりますが、蘇東坡は詩人として名が知られているだけでなく、美食家としても名が知られ、『黄州寒食詩貼』など飲食についての著書もあり、更に腕のきく調理師でもあり、よく自ら台所に入り、料理をつくってはお客をもてなしたといわれます。

今でも四川料理のお店に行きますと、そのメニューに「東坡肉」という料理名が目にとまります。

この料理は蘇東坡が編み出したことからこの名で呼ばれ、数百年もつづいています。宋代の頃、豚肉の食べ方といえば、いためるだけでしたが、蘇東坡が豚肉をとろ火で、時間をかけて煮て、美味しい料理をつくったのが始まりだそうです。蘇東坡は自分でつくって食べただけでなく、友人にも勤め、文人の間でまたたくまに広がり、更に世間にまで広がり、特に広東や浙江一帯で広がり、現在にまで受けつかれています。

周紫芝という人が書いた『東坡詩話』の中でこういっています。

東坡はもとから豚肉を好む。黄州にいた時、豚肉料理のつくり方をふざけ半分にこんな詩をしたためている。

東坡肉, 0712dongporou.jpg

黄州の豚肉中々上等、

値段は安く糞土の如く、

富める者敢えて食べず、

貧しき者作り方知らず、

とろ火を使い、鍋を洗い、

炊き木に乗せて煙りたたず。

あせらずゆっく待つが良い、

火加減よろしかれば自ずと美味しくなる。

毎朝二碗もり立てれば、

腹は一杯、君かまうことなかれ、と

いうもののだが、明らかに、これは、

東坡の文のいたずらにすぎない。

周紫芝は『東坡詩話』の中でこう書いています。

東坡肉, r1.jpg

東坡肉」のつくり方は極簡単で、皮のついた豚肉を縦横20センチほどの大きさに切り、醤油、砂糖で味つけし、ナツメなどを入れて、とろ火でゆっくり煮つめたものです。あつものといっても実は野生のナヅナと米のモミ殻を粉にしたものを主な材料として、お粥のようなものです。病気の治療にもよくきくということです。蘇東坡が友人の徐十二に送った手紙の中で特に詳しくこのあつものについてふれています。

「今日ナヅナを食べたがなかなか美味しかった。徐君病ときくが、酢と酒だけは避けるべし、唯天然の珍あるのみ、五味に及ばずが味の外にある美を味わえる。君、できものありときく、故にナヅナを食するとよい。そのつくり方は、ナヅナ一二升、きれいに洗い、きれいにといだ米を三合ばかり入れ、水三升加え、ショーガは皮をむいて五センチほどに切り、一緒に釜に入れて炊く。塩や酢は禁物。君、この味をしめたならば、山の幸、海の幸も美味しいと思わなくなろう。これ、大自然が山奥に隠居する者への禄なり。」

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これはまぎれもなく、蘇東坡の発明による食事療法といえましょう。詩人の語遊びもこれにならって自分でつくり、その感想を詩にしたためていますが、その詩の第一句が、「ナヅナとモミ殻、香り甘く比類なし」といっています。この語遊びも南宋の詩人で、彼の一生は紆余曲折とした多難な人生を歩みましたが、八十五歳という当時としては、稀な位い長生きし、晩年も耳はいいし、目もよかったし、時には山に登って柴刈りをしたということです。長生きのこつとして、彼は精進料理にふれたものが数十首もあります。彼は会う人ごとに精進料理の長所を語り、長生きしたければ、精進料理と説きました。語遊びは宮廷料理の八珍の一つ、ラクダのコブの料理野菜料理に及ばぬといい、ハトムギと木くらげは肉より栄養価値があると人々に勤めました。

ところで、今になってもこの「東坡肉」は大変人気を集め、大抵のお店ではこの「東坡肉」を以ってお客さんを引き付けています。中国を訪れた場合、是非この「東坡肉」を味わってみてください。

ご存じのようにヂンギスハンにはじまるモンゴル帝国は、13世紀の中頃にフビライによって、中国全土を含む東アジアのほとんど全域を征服し、元王朝を築き、約一世紀に渡ってこれを支配しました。これは少数民族が支配した最初の王朝で、内蒙古のドロン・ノール西北の開平府を上都とし、現在の北京を中都、後に大都と改め、新帝国の都とします。つまり、北京が都として誕生したのはこの時からです。

中国の料理も、少数民族の料理が加わり、種類も大幅に増えた時代です。

シャブシャブ, 0809huoguo-1.jpg

ジンギスカン料理といえば、鍋料理でおなじみのシャブシャブはこの時代の産物です。

話によると、今から700年ほど前、元の世祖フビライが、軍を率いて長征した時、突然、古里の草原の塩味の羊の肉の煮込み料理が食べたくなって、つくるよ命じました。随行の調理師が手際よく羊をつぶし、皮をはぎ、肉を切り取っていた時でした。騎兵斥候が「敵軍すでに包囲網をきづき、近くに陣を構え、攻撃を待つばかり」との報告が入ってきました。用兵は神速を貴としとす、すばやく攻撃にかからねばなりません。羊の肉をとろ火で煮ていたのでは間に合うはずがない、こう思った調理師は、羊肉の一番やわらかな部分を薄切りにして、沸き立つ湯につけ、一碗盛るとフビライも腹が減っては戦はできぬと、これを急いで腹一杯食べましたが、塩味だけではあったが、格別な美味しさ、汗が流れ出ると全身の血液が沸騰するかのようで元気がつき、軍を率いて敵陣に向かい、勝利を収めて帰朝します。

フビライは帰朝すると、この調理師に褒美として大金をさずけ、諸大臣を招いて、勝利を祝う宴会に設けました。調理師は、その時には、調味料を色々と工夫して、ごま味噌や、豆腐の糟漬け、唐辛子、ニラの花の漬物などをまぜ入れて出しますが、それが大変喜ばれ、フビライからシャブシャブの名が与えられたという事です。

シャブシャブの二つは肉を薄く切ることにあり、調理師の腕もここに現れ、その肉、皿にのせると皿の模様が透って見えるほど、薄いといわれ、そんなわけで肉を切る機械が誕生するまで、この料理は家庭料理にはなれなかったのです。でも、シャブシャブの命名者が元王朝の初代の皇帝フビライであったそうです。

この時代のフスホイという人が書いた宮廷料理のメニュー、『飲善正要』第一巻にも、「漢族の伝統的な料理のほか、少数民族の料理も大量に加わり、宮廷料理はこれまで以上に豊かになったと」と記しています。

満漢全席, 0823manhanquanxi.jpg

さて、時代は変わって明代に入りますと、豊かな宮廷料理が民間に伝わり、町中の料理店も、一層高級化して、個室が設けられ、宮廷で出される会席料理が食べられるまでになります。

また庶民のために書かれたお料理の本が出版されるほど、民間の家庭料理もこれまでになく豊富多彩になって来ました。

そして、封建王朝時代の料理が頂点に達したのは、最後の王朝である清朝です。その代表作が、「満漢全席」といわれる会席料理です。この満漢全席は乾隆の時代からはじまり、すでに200年の歴史がたっていますが、これは、だいたい中国全土の名料理の集大成戸も言うべきもので中国料理の精華が、ここに集められています。

この会席料理は、前菜が48品、料理が134品、それにフルーツやお菓子がつき、普通は六回に分け、二日間かけてやっと食べ終えるという超豪華版です。品種の多いこと、味の美味しいこと、色、形の美しいこと、どれもこれも中国一です。

満漢全席は、満州族が北京に都を置く清王朝をきづいたあと、康煕、雍正から、乾隆の期間にかけて、徐々に完備され、六部九卿という役職を専門に設け、宮廷の宴会や国の大きな式典の宴会に必要なことを司っていました。乾隆のころ、今から200年ほど前、貴族や富豪がこれにならって、邸宅で満漢全席を設け、自分の地位や財産を誇ったといわれます。当時、一席設けるために必要なお金は、中流家庭の全財産をつぎ込むほどだといわれます。

これが光緒年間、今から120年ほど前、西太后が実権を握った頃になりますと、この満漢全席は、更に凝るようになり、一般の官宦までが、客を迎えるのに満漢全席をもってもてますことをほこりにしていました。

1911年の辛亥革命で、封建王朝の歴史に終止符が打たれ、満漢全席も「大漢筵席」と名を改め、料理も200品以上のものが72品にまで減り、多くの満州族の料理は漢宴席の中に融け込み、満族の区別がつかなくなりましたが、民間では、多くの料亭は満漢全席を売り物にして、客をひきつけていたといわれます。

当時、河北、山東、河南は北京から伝わり、長江江南の地区は四川から伝わり、広東、福建などは広州から伝わったということです。

清朝の時代の料理の特徴として一つ言えることは、味つけにこり、操作にこっていることが上げられましょう。

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袁牧という人が書いた『随園食単』という書に:「調理の達者たる者、醤油をひかえめに使い、甘からを先にたしかめる。油はゴマ油を使うが、生であるかどうかを確かめる。酒は釀造酒を使うが糟を取り除く、お醋は陳醋を使い、さわやかなものを使う。醤油には薄いもの濃いものの区別あり、油には植物油と動物油の区別あり、酒には甘いものとすっぱいものの区別あり、お醋も新陳の区別あり、どれ一つ油断は許されない。ネギ、ショーが、砂糖、塩などは使う量は少ないが、すべて上等なものを選ぶべき」といい、また「調味料の使用は、料理するものによって、酒、水ともにしようする場合、酒だけで水を使わない場合、水だけで酒を使わない場合、塩と醤油を一緒に使う場合、塩だけの場合、醤油だけの場合と区別し、なまぐさいものは醋をふりかけること、鮮味を保つには水砂糖を使うこと店……」と書いてあります。この一例からも、清朝の料理づくりがいかに凝っていたかが伺い知れましょう。

また、清代の理論家李漁も、「閑情偶寄」:ひまにまかせてつづるとでもいいましょうが、理論家の李漁も実はグルメで、彼はその著書で、料理は原料の元の味を大切にすべしと説き、竹の子をもしほかのものとまぜあわせ、更に醋や胡麻油を使ったのでは、鮮味を失い、竹の子の真の味が消えてしまう」と当時流行っていた食べ方を否定しています。そして、料理のうまさは、原料の元の味を十分生かされたものを求めることが清代の調理法の一つの特徴といえましょう。

ラストエンペラーの傳儀の代で、封建王朝は民国に代わりますが、この時代は戦乱に満ちた時代で、料理の新しい発展は見られず、基本的には伝統の名料理がひきつがれただけでした。この時代は「満漢全席」はすでに時代遅れとなり、これにとって替るものとして、海燕の巣とフカのヒレに代表される料理や、アヒル、ナマコの料理が増え、会席料理も、八品料理に前菜八品というのが一般的になっていました。

新中国誕生後の相当長い期間、大きな力を建設にふりむけ、食べ物といえばお腹を満せばそれでよい時期がつづき、この時期にも、料理も余り大きな発展は見られません。料理がこれまでに見ないすさまじい勢いで発展をとげたのは、1980年代に、計画経済から市場経済に転換し、改革開放政策が一つ一つ実を結ぶようになってからのことです。

封建王朝時代は宮廷内の必要で、料理の種類も増え、調理技術が発展をとげたわけですが、当時の一般庶民にとって見れば、高級料理は高嶺の花で、縁の遠いものでした。最近は、北京市の料理屋も、十数年前に比べて、数十倍も増え、北京にいれば、広東料理から、上海料理四川料理、淮陽料理、ひいては少数民族のウィグル料理、タイ族料理と何でも食べられます。

お腹を満たすだけという段階は、少なくとも豊かになった農村や都市部では、すでに終止符が打たれ、更に美味しいもの、めずらしいものへと要求も高くなっています。

こうした経済的にゆとりのできた人々は、食べることにお金を惜しみなく使い、これがまた料理業の発展を促しています。

調理師の養成も調理師学校ができ、昔のような徒弟制度だけでは、必要に応じられなくなっているのです。

上海料理, 1005shanghaicai.jpg

ところで、中国料理も、長い歴史の中で、南方と北方では、料理も異なる風格を持つようになり、南方料理の代表が、長江淮河流域の楊州料理、または上海料理ともいいます。そのほか、広東料理に四川料理、北方の代表は山東料理です。これを中国の四大料理といい、これに宮廷料理を代表する北京料理が加わり、合わせて中国の五大料理ともいいます。


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